ベンチェプロジェクト
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ベンチェプロジェクトとは | ||||||||||||||||||||||||||||||
2006年、主として特別支援児学校を卒業した障害を持つ若い女性を対象に、刺繍の技術を習得して経済的自立を図る目的でベンチェ省ベンチェ市に作られた刺繍教室を支援する、FUJI教育基金のプロジェクトの一つ。当基金顧問大石芳野さんの要請で始まり、毎年、25人から30人の生徒の教材、指導の先生の費用、生徒の9ヶ月分の食費その他を支援した。 当初は会員個人の寄付のみによってまかなわれていたが、日本から提供した教材用のデザインが作品として日本で販売できるようになり、支援にまわせるようになっていったので、2011年にFUJI教育基金のプロジェクトとしては終了し、独立のプロジェクトとなった。 その後も、"ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会"会長レ・フインさんを通じ、刺繍教室の支援は続いている。2012年までに、卒業していった子のなかで22人が自立し、うち14人が結婚した。 なお、2013年、女性の地位向上のために共に働く事業経営者や専門職の人々の国際的奉仕団体である「大阪Uゾンタクラブ」が、設立20周年記念事業の一つとしてベンチェ障害者作業所の整備を企画し、刺繍、縫製、コンピュータ、木工用の6教室と会議室、教官室、トイレのほか、工業用ミシン、メインコンピュータを贈り、今も支援を続けている。 現在刺繍している作品は、バラやツバキの花をあしらった小袋のほか、児玉房子さんの憲法9条(英文)のポスターやガラス絵の宮沢賢治の絵本の一場面(額)、原田泰治の四季の風景(額)、角田葉子さんの17種類のツバキを描いた大作(額)などで、いずれも好評である。 |
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ベンチェプロジェクトの歴史 | ||||||||||||||||||||||||||||||
2006年
2007年
2008年
2010年
2011年
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ベンチェプロジェクトの記録 | ||||||||||||||||||||||||||||||
2007年10月10日-ベンチェ特別支援児学校訪問 10月10日、朝から移動し、ベンチェ省特別支援児学校を訪問した。 ベンチェ省は、ホーチミンより南南西70km (車で約2時間余) メコン川河口部の広大な中洲地帯に位置している。ベトナム戦争当時、はじめて民族解放戦線が結成され、戦闘が行われたところで、大量の枯れ葉剤散布に曝された地域でもある。 1989年、日本の女性養護教員により家庭に放置されていたさまざまな障害をもつ子供たちが見出され、日本に援助の会ができ、学校が建てられた。現在では視力、聴力、肢体不自由等の障害をもつ、小学生から高校生までの子供たち204人が、共同生活をしながら学校教育を受けている。 日本からの援助は打ち切られているが、ベンチェ省の予算による障害をもつ子供たちへの普通教育は、ベトナムにおいても進んだものとして高く評価されている。しかしここを卒業した後の子供たちは、自立が難しく、やむなく宝くじ売り等をして生活しているものもいる。 その実情を憂慮した"ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会"の会長で元知事レ・フインさん (Le Huynh=Huynh Van Camさん) の要望を受け、FUJI教育基金では2006年度から、学校卒業生と周辺の障害をもつ生徒への職業トレーニングに対する援助を開始した。 援助の内容は、刺繍教室を開くための教材、生徒20人分の9ヵ月間の食費、先生の費用である。このトレーニングは、子供たちが将来、自立して生活できるようになることを目的にしている。 ベンチェ特別支援児学校では、レ・フインさんと前副校長のディエップさんに迎えられた。昨年会った校長先生は変わられたそうで、会えなかった。刺繍の先生も変わっていた。刺繍教室は、昨年訪問したときは夜で、中高校生も混じって行われていたが、今年は昼で授業中ということもあり、埃の少ない敷地の奥の一室に移り、20名で行われていた。男の子もひとりいた。 児玉房子さんデザインの憲法九条のポスターを、昨年、教材として試しに作らせ、試作品を日本でまわりに紹介したところ、きれいだと好評を博した。そこで、50枚を注文していたが、その半数以上が出来上がっていた。ほかの作品もとても上手になっていて嬉しかった。一部、サインの位置等の手直しと、ガラスの額をプラスチックの額に換えてもらうよう頼み、先を急ぐ我々はおいとました。(宮本・記) 2009年10月7日-"ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会"事務所訪問 朝、ホーチミンから私たち一同、小型バスでベンチェに向かう。 最近完成した東西高速という片道2車線の道路を南西にバスは走る。市中の道路に比べて広く、バイクの数はやや少ないものの、原付バイクと車が入り乱れて、運転はやはり難しそう。昨年まで、ベンチェの町へ行くにはフェリーを利用しなければならなかったが、橋が完成したのでスムーズにベンチェに到着。 途中、FUJI教育基金が支援しているベンチェ特別支援学校を訪問。しかし、「インフルエンザ感染防止のために校内に入らないでほしい」と事前通告を受けていたので、校内に入らず、そのまま"ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会"事務所を目指す。 "ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会"事務所到着。 所長のフインさん、副所長のグーさん、それに特別支援学校元副校長(現在、FUJI教育基金が支援する刺繍クラス世話役)のディエップさんらに出迎えられた。 フイン所長から、最初に、 「特別支援学校の生徒たちの内62人がインフルエンザに罹患し、みなさんに感染するといけないので、学校訪問を中止していただいた」 との説明があった。 (日本を出発する時には、私たちが校内に入るとインフルエンザを持ち込む危険性があるためだと思っていたが、そうではなく、私たちがインフルエンザに感染するといけないので中止となったのだ。) ←フイン所長 そのあと、フイン所長およびグー副所長から"ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会"の活動について、おおむね以下のような説明を受ける: ・ベンチェ省では、現在も聴覚、視覚、肢体障害などの発生率が日本などに比べて10〜15倍高い。しかし、この原因が枯れ葉剤であるかどうかの因果関係は明確でない。 ・「支援する会」はさまざまな職種からなる約800人の会員からなっており、会の活動資金は、日本人を含めた多くの人々の寄付によっている。 ・事務局のスタッフはボランティアで、給料を貰っていない。 ・これまでの5年間に以下のような活動を行った。 (1)心臓手術330人(主にこども)の援助 (2)目の手術10000人以上 (3)身体障害者に車椅子を贈る(約2000台) (4)奥地に医者を派遣する(これまで約14万人治療) (5)特別支援学校の援助(FUJI教育基金からは刺繍教室) (6)心臓病の子供を持つ貧しい家庭に家を提供(これまで250軒) (7)経済的に困っている入院患者に食事の提供(1000食/日)。 ・ベンチェ特別支援学校のような学校はベンチェ省でここ1校のみ。 ・生徒数は小、中、高あわせて200人で、重度障害者は受け入れていない。 ・現状では、200名以上の生徒数を受け入れるのは不可能だ。 ・高校を卒業すると大学や短大に進学する者もいるがまれで、大半の者には職がない。 ・FUJI教育基金が援助する刺繍教室は、2006年から2009年までスキルのある者を選抜して21名ほどのクラスで運営している。 ・これまでの刺繍教室への支出は援助額の約80%で、現在、若干の残金がある。 ・2009年までに刺繍教室を卒業した9人の内、3人は刺繍で生計を立てることができるようになったが、残りの者は引き続き学校に残ってスキルを磨いている。 所長から、刺繍教室を卒業した内の1人は結婚したとの喜ばしい報告があった。今回、この9人には日本から持ってきた糸切り鋏を贈る。 "ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会"の事務所を辞して、昼食会場の水上レストランに向かう。あいにく所長、副所長ともに都合が悪く、特別支援学校元副校長ディエップさんのみが私たちと昼食を共にされる。 その後、私たちはメコンの中洲にある椰子キャンディの工場、果樹園などを見学し、両岸にニッパヤシが繁茂している水路を小舟で遊覧。ニッパヤシの北限は西表島であるが、天然記念物となっている西表のニッパヤシに比べて、本場のニッパは背丈が3倍ほどもあり、さすがに立派だ。 メコンクルーズが終わり、船着き場に着くと、バイクで先回りしたディエップさんが待っていた。刺繍教室の生徒の作品(刺繍したTシャツやバッグなど)をもってきていて、私たちが船から降りると、すぐにバザーが開かれる。(岩田・記) 2010年1月25日-大石芳野さんとともに、エイボン社を訪問 1月25日、FUJI教育基金代表ト・ブ-・ルーンと他2名は、大石芳野さんと新宿のオペラシティにあるAVON東京本社(エイボン・プロダクツ社)を訪ねました。 大石芳野さんは2007年エイボン女性大賞を受賞されました。 エイボン女性大賞は、「1979年から人々に勇気や希望を与える女性たちに贈られてきました。特に活動の分野を問わず、社会的にめざましい活躍をし、立派な功績をおさめ、その年を代表する女性としてふさわしい女性」に、毎年贈られています。 大石さんは、 「戦時下の国々を戦後も継続的に訪れ、 最も無力な子どもや女性、家族の姿を 「写真」という言語を超えた手段で記録。 夢や未来を奪い環境を破壊する戦争を告発し、 力強く生き抜く人々の"今"を伝え続けている。」 ことに対して、賞を贈られました。 さらにこの賞は、「受賞者の活動分野の関係者及び協力者の今後の発展を願い、受賞者本人への副賞とは別に、副賞と同額を受賞者が指名する指名寄付団体に寄付」しています。 大石さんは、指名寄付団体として、FUJI教育基金を指名されました。 そして、そのお金は、一部は奨学金のために、多くはFUJI教育基金が支援しているベンチェ特別支援学校の刺繍教育のために使わせていただきました。 今回、そのお礼にと、ベンチェ特別支援学校の生徒がベトナム伝統の蘭の花の刺繍を作り、額に入れて、エイボン社に贈りました。 アメリカ人らしい明るいテレンス・ムアヘッド社長は、AVONカラーである美しい蘭の花をとても喜ばれました。 ←刺繍を手にするテレンス・ムアヘッド社長 ←ムアヘッド社長と大石芳野さん ↑ムアヘッド社長を囲むFUJI教育基金メンバー(右端は岩城昌子さん) メコンデルタを訪れられた時の話やAGENT ORANGE (ベトナム戦争でアメリカが使用した枯葉剤の一種)の話など瞬く間に1時間がたってしまいました。(以上、宮本・記) * * * エイボン社を訪れたあと、大石芳野さんが、岩城昌子さん(エイボン女性文化センター事務局長)にお礼のメールを出されました。 ベンチェへの大石さんの思いが綴られていますので、以下、その一部を紹介させていただきます: 「ムアヘッド社長さんがあのように長い時間、ベトナムやベンチェの枯れ葉剤(エージェント・オレンジ)、障害者たちの話を聞いてくださり、とても感激しました。 授賞式(2007年)のあと間もなくしてベトナムを訪問されたことには、驚きと同時にとても嬉しく思います。 お話をしているとき、エイボン社の方たちの前で、恥ずかしながらわたしは涙ぐんでしまいました。 あのときのことは思いだすだけで胸がいっぱいになってしまって・・・。 それは、今から6〜7年ほど前になりましょうか、ベンチェを久し振りに訪ねた時のことです。 ベトナムの表通りはどんどん発展しているのに、ベンチェには、 取り残されたように戦争の後遺症と必死に闘いながら生きている子どもや、 もう大人になった人たちが大勢いました。 わたしはそのあまりにも大きな落差に強いショックを受けました。 初めてこの地を訪れたのは、写真集にもありますが1981年です。 以降、たびたび訪れていましたが、当時は交通も不便で、悪路を長い時間、車に乗り、メコン河をフェリーで渡り、また悪路を走るといった所に、ベンチェの枯れ葉剤汚染地域はありました。 (現在は道路も良くなり、橋も完成して車で楽に行けます。) かれらのことが気になりながらも他の地域に力を使ってしまい、 久しく訪ねなかったのですが、 多分、あの時は5年ぶりくらいにベンチェ省を訪ねたのでした。 そして、刺繍をしてくれた子どもたち (全員が枯れ葉剤障害者と思われる)がいる ベンチェ市の宿舎兼学校を訪ねたのでした。 かれらの姿を見ながら、 戦争が終わって30年近くにもなるのに・・・と、 たまらない気持になりました。 同時に、 かれらをこの中に閉じ込めていてはいけないと強く思い、 大して持ち合わせていないことを悔やんだのですが ドルを寄付して、 コンピュータを何台か買う足しにしてもらいました。 パソコンで外と繋がってほしいとも思ったし、 子どもたちも望みましたので。 帰国してルーンさんに早速、相談しました。彼は仕事の傍ら、個人レベルでFUJI奨学基金の活動をしています。 そして、ずっと以前にお会いしていた宮本典子さんに改めてお会いして、ご尽力をいただくところまでになったのです。 彼女は大学を定年退職して、あれこれ忙しいとは思うのですが、時間を作ってくださって、FUJI教育基金(改名)のなかのベンチェプロジェクトを一生懸命にしてくださっています。 わたしはなんだかんだと、忙しいなどと言い訳してしまっていますが、彼女がしっかりカバーしてくださっているのでとても助かっていますし安心しています。 そんなわけで、 ベンチェの学校の在学生や卒業生(枯れ葉剤障害者)の女性たちの刺繍の技術を高め、 売れるルートを見つけ、 自活ができていくようになる応援を しばらくは続けたいと思っています。 わたしがエイボン女性大賞をいただいたお蔭で、 彼女たちも少し自立の方に向かい出したかな・・・と。 ですから、 わたしにとっても彼女たちにとってもエイボンさんはとても貴重な存在です。 ムアヘッド社長に刺繍の絵をあのように喜んでいただけて本当に嬉しいです。」 2010年3月-国際ツバキ会議久留米大会 「2010国際ツバキ会議久留米大会、第20回椿サミット久留米大会」が、2010年3月20日から24日、福岡県久留米市で開かれました。 「国際ツバキ会議」は、国際ツバキ協会が1年半〜2年ごとに開催している世界大会です。 ツバキの愛好家にとって、ベトナムの黄色い花の椿には、たいへんな思いがあります。 ベトナムの黄色い花の椿は100年前に報告があったものの、その後、「幻の椿」とされていました。 その後、1965年にベトナムとの国境近くの中国で「金花茶」が発見され、1980年代後半からの日本とベトナムの共同研究によって、ベトナムで黄色い花の椿が見つかりました。さらに次々に新種がみつかっています。それにはFUJI教育基金代表のト・ブー・ルーンさんが大きく関わっておられます。 今回の会議に向けて2年前から、私たちは、ベンチェ特別支援学校の生徒たちの刺繍作品を準備していました。 それは、角田葉子さんの「クックフオンの想い出」、久留米の代表的な椿「正義」の2つの刺繍、日本のヤブツバキを刺繍した小袋です。 角田葉子さん(お茶の水女子大学卒。植物画家・太田洋愛氏に師事。日本ボタニカルアート協会代表委員。米国ハント植物画展展示。英国RHSフラワーショー「シルバーギルトメダル」受賞。「ベスト・ボタニカル・アーティスト・BBCガーデナーズワールド・ライブ2003」トロフィー賞受賞。英国キュー植物園機関紙「カーチス・ボタニカルマガジン」に挿絵掲載)はベンチェの生徒たちのために、デザインをしてくださいました。 国際ツバキ会議久留米大会に、これらの刺繍を持って出席しました。初日の店番は松永さんが手伝ってくださいました。 店番の松永さんの腕前もあって、小袋は飛ぶように売れ、追加注文も頼まれるほどでした。 このように作品が好評だったのは、4年目に入った刺繍クラスの生徒たちの腕前が格段にあがっていることにもよると思っています。(宮本・記) 2010年3月29日-ベンチェ特別支援学校訪問 ベトナム、ベンチェ特別支援学校を2010年3月29日に訪問しました。 今回は、3月28日に関西空港出発、4月1日朝帰国という短い旅でした。 29日7時半、カーさんとルーンさんの会社のツーフオンさんと3人でホーチミンを出発。 ベンチェまでは2時間足らずで着きました。 道路が良くなり、橋もできて快適でしたが、ベンチェはまだまだ田舎です。 午前中は"ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会"の事務所で、会長のレ・フインさん、副会長で特別支援学校担当のグーさん、そして学校の刺繍クラスの世話をしてくださっている元副校長ディエップさんと会談し、現在の状況をうかがいました。 一緒に昼食をとったあと、午後は学校で生徒たちに会い、学校の中を見学しました。 刺繍の注文もしました。 刺繍作品を販売しているとき、「この刺繍をした人はどんな人?」と時々聞かれます。 今回は、生徒の顔と名前が一致できるように、生徒ひとり1人の写真を撮りました。 ホーチミンでは額屋へ行き、ベンチェの生徒たちの刺繍の額装について相談しました。 刺繍糸の色、ファスナーなどの色、額のマットの色など現地ではないものが多く、今後の課題と思いました。(宮本・記) 2010年10月13日〜15日-奨学金授与の旅 今年度のFUJIの旅参加者のうち2名が、13日朝からホーチミン経由ベンチェに行きました。 ベンチェには、ルーンさんの姪ごさんのトウ・フオンさんと通訳、それにホーチミン師範大学3年のハーさんとその友人のベンチェ省出身のタオさんが同行してくれました。 13日夜は、刺繍クラスの生徒20人 "ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会"会長レ・フインさん、副会長ゴックさん、刺繍クラスの世話をしているディエップさんがホテルへ来て、全員で会食。 生徒たちもよく食べ、楽しい時間を過ごしました。 「みんなの今後の希望は?」と聞くと、 「一緒に刺繍をしたい!」ということでした。 北部のハロン湾へ行く途中で見た下の写真のような刺繍施設は南部にはなく、あのようなものがあればいいと思いました。 14日、学校へ行き、もういちど生徒たちに会いました。 特別支援児学校校舎は現在の敷地の後に建設中、基礎部分まで進んでいました。 工事用の車両は学校敷地を通らずに入ることができ、教室は壊さずに済みました。 新しい校舎は少し小さくなり、生徒数は今と同じ200人の予定だそうです。 ハーさんとタオさんは生徒たちに、折り紙で羽を動かす鳥を上手に教えてくれました。(宮本・記) 2010年6月26日-FUJI教育基金第15回総会 FUJI教育基金第15回総会を、2010年6月26日(土)に開催しました。 総会では、「2009-2010年度事業の総括と次年度計画」「ベンチェプロジェクト」などについて審議しました。 * ベンチェプロジェクト 2006年から実施してきた、ベンチェ省の障害を持つ子供たちの自立教育支援事業(刺繍技術習得)「ベンチェプロジェクト」を、ここでひと区切りとして、今年度で終了することにしました。 当プロジェクトは、宮本運営委員の個人的な寄付金を核として、また大石芳野顧問のお力添えによるAVON社等からの寄付金、さらに多くの支援者からのさまざまな形での寄付金を礎として、当基金運営委員等の支援・実施面での協力を得て、ベトナム戦争時の米軍の枯葉剤等の影響による障害を持つ女性たちの経済的自立支援に力を注いできました。 この4年間の支援総額は323,337,500ドン(約200万円)で、特別支援児学校を卒業した「すべて聾唖、身体障害」の女子の刺繍レベルアップクラス、および在校生の刺繍クラスの先生方の費用をまかなってきました。 その結果、多くの生徒たちが難度の高い刺繍技術を習得し、2009年の教室では21人の生徒のうち9人が刺繍を職業として、自活への1歩を踏み出すことができるようになるなど、具体的な形で、目に見える形での一定の成果を達成することができました。 |
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↑「憲法9条」の刺繍絵(ベンチェ特別支援児学校・刺繍クラス生徒の作品) |