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2007年FUJI奨学金授与の旅
藤村知子
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2007年10月9日(火)〜18日(木)8泊10日機中1泊
参加者:成田空港から10名、関西空港から2名、現地から1名、さらに13日より1名
【10月9日(火)成田→タンソンニャット空港】
ホーチミン市へ 朝、成田に集合。ターミナルビルが工事中のため、ベトナム航空の受付はいちばん奥に追いやられ、不便だが、逆に、人が混雑しておらずゆったりしていた。 窓の外は良いお天気で、(雲の上はいつもお天気)眼下に沖縄らしい島が見える。昼のフライトはこのような景色が楽しい。何事もなくホーチミン市に到着。
昨年は工事中だった空港施設が出来上がっていて、スッキリとして明るく良い感じ。現地にてミンさん、バンさん、ニャンさん、奨学金を受けていた2人の学生、関空からの2人と合流して、ツーズー病院に直行。
ツーズー病院・平和村を訪問 ツーズー病院はベトナム一の規模の産科専門病院で、日本にもこのような大きな病院はない。ベトちゃん、ドクちゃんがそこで分離手術を受け、25歳の今日まで(ドク君は結婚して最近独立し、ベト君は先日亡くなった)暮らしてきた。
←ドクさん夫妻
私は2年前、初めてドク君に会い、彼の片足を支えている骨盤の小さいこと、手術当時すでに意識のなかったベト君に残り半分を与えたこと、そして今日まで看護をしてこられたツーズー病院の姿勢に深く感動し、尊敬してきた。旅行者には簡単に訪れることのできない病院である。今回、静脈点滴の器械をおみやげに持参した。
前副院長のタン先生、平和村のチュン先生、ドク君、あとから院長のタン先生も来てくださり、立派なザボン(唐辛子と塩をつけて食べる)をいただきながら説明をうかがった。また、私達の質問にもこたえていただいた。

なお、平和村は親に捨てられた障害を持つ子どもを育てるために、ドイツのNGOによって建てられ、このツーズー病院内を含めて、全国に4箇所ある。
医師281人、看護士800人以上、スタッフ1,800人で、ベッド数1,100、患者2,000人、お産は年間4万5,000人。ベトナムには産科の病院が少ないため、患者が集中しているという。日本のように分娩促進剤を使ったり、帝王切開等はせずに、結合児も逆位も普通分娩で産ませる、障害児の割合は約1.5%で、このなかに耳の聴こえない子などは含まれていない。この数字は日本の10倍である。その他、スタッフの仕事のやりかたの違いが、いろいろわかった。
午後も遅くなったので、平和村の4階だけ案内していただいた。
現在、ツーズー病院の平和村には60人が収容されている。うち35人は学校に行くことができるが、25人は障害が重く、一生面倒を見ることになるという、チュン先生の説明であった。現在はドイツの援助はなく、病院が費用を出しているという。
まず通された一室には、四方の壁全体に3段の棚が設えてあり、異常胎児の標本が保存されていた。ラベルを見ると、戦争終結直後の標本とみられるものから、最近のものまであった。
子供たちの部屋に行く階段の壁には、子供たちの写真が掲げられている。
ベッドには、重度の障害を持つ小さい子供たちが横になっている。彼らは、思わず抱き締めてしまいたくなるような美しい目をし、我々の来訪を喜んで声をあげてくれた。子供たちは大変弱いので、空港から直行した我々がどんな病気の原因を持ってきているかもしれないと、早々においとま した。 (この項、宮本・記)
夕食はベトナム料理をいただき、サイゴンホテルに泊まる。
【10月10日(水)ホーチミン→ベンチェ→カントー】
まだ雨期が明けていないので、サイゴン川より昇る朝日は、雲で見ることはできなかった。けれども、ホテルの窓からは、昨年には見られなかったビルが建っているのが見え、ホーチミン市もどんどん変わっていくのだろう。
一路、ベンチェ省特別支援児学校へ向かう。時折り、激しいスコールに遇う。
ベンチェの刺繍クラスを見学 ベンチェ省は、ホーチミンより南南西70km (車で約2時間余) メコン川河口部の広大な中洲地帯に位置している。ベトナム戦争当時、はじめて民族解放戦線が結成され、戦闘が行われたところで、大量の枯れ葉剤散布に曝された地域でもある。
1989年、日本の女性養護教員により家庭に放置されていたさまざまな障害をもつ子供たちが見出され、日本に援助の会ができ、学校が建てられた。現在では視力、聴力、肢体不自由等の障害をもつ、小学生から高校生までの子供達たち204人が、共同生活をしながら学校教育を受けている。
日本からの援助は打ち切られているが、ベンチェ省の予算による障害をもつ子供たちへの普通教育は、ベトナムにおいても進んだものとして高く評価されている。しかしここを卒業した後の子供たちは、自立が難しく、やむなく宝くじ売り等をして生活しているものもいる。
その実情を憂慮した"ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会"の会長で元知事レ・フインさん(Le
Huynh=Huynh Van Camさん)の希望を受け、FUJI教育基金では2006年度から、学校卒業生と周辺の障害をもつ生徒への職業トレーニングに対する援助を開始した。

援助の内容は、刺繍教室を開くための教材、生徒20人分の9ヵ月間の食費、先生の費用である。このトレーニングは、子供たちが将来、自立して生活できるようになることを目的にしている。
ベンチェ特別支援児学校では、レ・フインさんと前副校長のディエップさんに迎えられた。昨年会った校長先生は変わられたそうで、会えなかった。刺繍の先生も変わっていた。刺繍教室は、昨年訪問したときは夜で、中高校生も混じって行われていたが、今年は昼で授業中ということもあり、埃の少ない敷地の奥の一室に移り、20名で行われていた。男の子もひとりいた。

児玉房子さんデザインの憲法九条のポスターを、昨年、教材として試しに作らせ、試作品を日本でまわりに紹介したところ、きれいだと好評を博した。そこで、50枚を注文していたが、その半数以上が出来上がっていた。ほかの作品もとても上手になっていて嬉しかった。一部、サインの位置等の手直しと、ガラスの額をプラスチックの額に換えてもらうよう頼み、先を急ぐ我々はおいとました。(この項、宮本・記)
カントー市へ 昼食は水上レストランでいただく。その後、ミトーへ戻らず、カントーへ直接向かう。車は田舎道を走る。周りには、ニッパヤシや珍しい植物がつづく。大丈夫かなと心配になる小さな橋を渡る。
カントーでは、ニン・キュー・ホテルの水上レストランで夕食。ニン・キュー・ホテル泊。
【10月11日(木)カントー→アンザン→チャウドック】
水上マーケットへ行く。船着場が変わっていて、探しているうちに時間が少し遅くなり、賑わいが少なかった。帰りに、日本のODAで建設中、突如崩壊した橋を見に行く。

その後、カントー大学に行く。
カントー大学での奨学金授与式
カントー大学は、FUJI教育基金の出発点で、在日の元ベトナム留学生たちが初めて奨学金を贈呈した。この1991年から、奨学基金を設立した1996年を経て、いままで17年間奨学金の授与がつづいている。
これまで延べ431人に奨学金を授与してきた。その間、事務的な世話をしていただいた職員も入れ代わり、また大学の経済的な環境も改善されてきたため、2006年からは奨学生数をそれまでの20人から5名に絞り、逆に金額は3倍にして、年間1人300万ドンを授与している。
メコンデルタ最大の街カントー市にあるカントー大学は、2006年に創立40周年を迎え、記念式典には我々も招かれて出席した。理学部、工学部、農学部、教育学部があるが、これからは文系を整備して総合大学を目指している。特に農学部は、メコンデルタの主要な生産を担っている農業の発展に大きく寄与している。東京農工大学と姉妹校でもある。
1年後には整備されるという分子遺伝学の建物を見ながら、我々は授与式の行われる教室に入った。そこでは顔なじみのキム先生(名誉教授)、副学科長のチュン先生がお待ちだった。若い方のキム(チョン?)先生の司会で、式が始まった。
はじめにFUJI教育基金からの挨拶と紹介、キム先生の奨学生選択の過程の紹介、奨学金授与、園芸科3年のジュンさんのお礼、などがつづいた。ご出席の先生方のなかには、九州大、東京農工大、広島大等日本に留学された人も多かった。メコンデルタはとても生活が厳しいところで、学生達たちにとって、奨学金はとてもありがたいとのことであった。
その後、学生食堂で、教室のスタッフや大学院生を交え、奨学生とともに昼食を囲み懇談した。今年の奨学生は男子1人・女子4人で、いぜん女子が優勢であった。(この項、宮本・記)
その後、ロンスエンのアンザン大学に行く。
アンザン大学での奨学金授与式 カントー市から車で1時間ほど離れた、メコンデルタ第2の都市ロンスエン市にあるアンザン大学は、1999年12月に設立された。もと師範学校から昇格して、現在、教育学部のほかに農学部もできている。学生数6,000人である。
FUJI教育基金は2006年からアンザン大学の農学部学生20人に奨学金を授与している。
アンザン大学では、世界的に有名なコメの研究者であるスオン学長が迎えてくださった。奨学生は女子13人・男子7名で、前年と同じく女子優勢である。
←中央が、ボ・トン・スアン学長
初めにFUJI教育基金から挨拶をした。「奨学金は少額であるけれど、少しでも皆さんの役にたって将来の社会に貢献してほしい」。
それに対しスオン学長から、「メコンデルタの環境は厳しく、農民の収入は低い。奨学金は安心して勉強できるよう、大きな刺激と励ましになる。また訪問したFUJI教育基金のメンバーに新しい人が増え、また若い人が増えているのもうれしい」とおっしゃった。
また、「アンザン大学は女性が進歩するためのプロジェクトをたてている。女子学生の数は53-54%である。副学長ほか女性のスタッフも多い。特に女性の栄養について考えている。なぜなら、世界的に見てGDPの上昇と女性の体格の上昇は、並行しているから」とのことであった。(アメリカだけが例外)
奨学生の1人アントウさんが感動的な感謝の辞を述べた。
その後、奨学生と懇談した。
←アンザン大学の奨学生たち
学生はアンザン省だけでなく他の地域からも来ている。同じ省からでも自宅からは通えないが、他省からはさらに条件が悪い。
図書館も見せてもらった。開架式で明るい感じであるが、まだ図書は少ない。コンピュータも80台しかなく、1人2時間の制限時間をもうけている。
←アンザン大学の時間を知らせる"ドラ"(?)
夜はスオン先生を囲んで、有意義な夕食の会となった。建築中に崩壊した例の橋についての話もでた。(この項、宮本・記)
元気なアンザン大学学長ボ・トン・スワン先生と夕食を共にする。

若いマンゴーの漬物が好評。上流で取水をするため水量が年々少なくなり、何年か後にはロンスエンあたりまで海水が上がって来るようになるという。稲作もできなくなり、景色が一変するだろうとのことで、生活にも困ることになる。
チャウドックへ 新しい国営のチャウ・フォー・ホテルに泊まる。ここは換気があまりよくなく、洗濯物が乾かない。
【10月12日(金)チャウドック】
FUJI教育基金を通じて建設を援助した幼稚園、中学校、建設中幼稚園等を見学。 その後、ツ・コア・ギア高等学校へ行く。
ツ・コア・ギア高等学校での奨学金授与式 チャウドック市にあるツ・コア・ギア高校生20名と、グエン・デイン・チュー中学生20名に対する奨学金授与は、一緒にツ・コア・ギア高校で行われた。
12日は金曜日なので、通常の授業中授業が行われている。授与式に出席したのは、その時間に授業のない約半数の生徒たちだった。

高校1年生のアンさん、中学2年生のグエンさんがお礼の言葉を述べた。なかなか立派だった。
生徒がそろう前に、校長先生にツ・コア・ギア高校の費用について伺った。(英語とカーさんの通訳)
「ツ・コア・ギア高校は、文部省の標準校(文部省の指定校)になって、学費が以前より数倍も高くなった。
さらに、親が負担する学校設備費の額も大きくなっている。年により異なり、多いときは8万5,000 ドンのときもあったが、今年は3万6,000ドンである。」
授与のあと、生徒たちが質問した。
――日本の中学生、高校生はどんな勉強やくらしをしていますか?
――日本の人たちは親のことをどう思っていますか?
など。
こちらから、 「なぜ勉強するか」
と質問したら、
「いい仕事につけるから」
ということだった。
授与式が終わったあと、生徒たちと一緒に昼食をとり、魚の養殖場の見学をした。 (この項、宮本・記)
チャウドックの見学 高校生6人と中華の店で昼食。鶏にしては少し骨が細いなと思われるから揚げが出る。これは何かと学生に聞くと、"クウェ"(蛙)であった。
水上生活をして魚(鯰の仲間)の養殖をしているところを見学。ここの犬はタイリッジバックの血を引いているらしく、背中の毛並みが逆立ち興味深い。
その後、回教徒のチャンパ族のところへ行く。雨期のため周り一面が水浸し。機場も水で作業できず、見学は中止。モスクの脇のみやげ物店で布の買い物をする。
5名がホーチミンへ一足先に帰るため、別れる。残った一行で、一面の雨期のメコンの凄さを見ようと、サム山の頂上を目指したが、バスが大きいので上がれない。バイクタクシーと交渉したが、料金を吹っかけてきたので登るのをあきらめ、ミーハーさんのいる山の幼稚園を訪問。
その後、ハーさんのいる中学校も見学。建物が老朽化して使えない教室もあり、援助を望んでいるらしい。校庭が日本と比べ狭いので、体育などはどうしているのだろう? 木も植わり、石もある狭い校庭で、子供たちは走ったりボールをけったりしていた。
ホテル近くのレストランまで、夜のチャウドックをぶらぶら歩いていく。これまで強行軍で、1名が軽い熱中症にかかる。
【10月13日(土)チャウドック→ホーチミン】
朝、チャウドック市場へ行く。
ホテルをチェックアウト。
11日にスワン学長と食事をしたロンスエンのレストランで昼食を取り、ひたすらホーチミン市に向かう。
ミトーのドライブイン前で、ベンチェ刺繍クラスの先生と待ち合わせ、製品を受け取る。ええー!と思うほどの量の製品をバイクに積み、ベンチェから運んでこられた先生に脱帽。
サイゴンホテル着。
日本から1名合流。夜間、関空へ1名、成田へ4名帰国。一部の製品を日本へ持ち帰るため成田組が預けようとしたら14kgオーバー、これくらいまけるよう交渉したら10kgおまけで4kg分払えとのこと。1名のトランクを機内持ち込みにして、結局ただになる。それぞれ無事帰国。
【10月14日(日)ホーチミン→コンソン島】
コンソン島(コンダオ島)へ、かわいいプロペラ飛行機で行く。上空から見たメコン河は道かクリークかよくわからない色で、どこもかも水浸しのように見える。河口は茶色く濁り、ここまでが川の水、ここからが海の水との境界線があり、上から見ると判別できる。
しばらくするといくつもの島が見えてきて、いちばん大きな島に回りこむように着陸したが、滑走路は島のくびれたような平らなところにあり、オーバーランしたらそのまま海に突っ込むような小ささだ。海沿いをたどり、ホテルのある中心部へ行く。古いフランス風の建物が多い。
←コンソン島のメイン・ストリート
大きな"ももたまな"の木が生い茂り、さほど暑さは感じられず、過ごしやすい。しかし海辺で湿気は高い。
屋根付きのテラスで昼食をとり、博物館やトラの檻を見学に行く。穏やかなベトナムの人たちの中に、これほどの反骨精神、独立心が潜んでいたのかと驚かされる。 夕食は、ぱりぱりに焼いたライスペーパーに、ハーブやナッツの刻んだものと少し骨っぽい挽肉の混ざったものを載せていただく。海蛇の肉であった。
トラの檻 授与の旅の最後に、コンソン島に行くスケジュールが組まれていた。
コンソン島に着いて、そこにあるのはトラの檻、フランス植民地時代からの「収容所」である、と聞いていた。
――トラの檻は、ホーチミンの戦争博物館でもう見学したからいい。
――平和ぼけの私はもうそんな辛い所は見たくない。
――実際、映画や写真で見るドイツの強制収容所の写真の鉄条網、高い塀、監視所、想像するだけで両足が震え鳥肌がたってくる。
中国東北瀋陽での終戦直後の1年間の体験は、実際には見てもいないのに、私に拒否反応を起こすのだった。
――しかし、愛する!ベトナムとベトナムの人たちは、そこを通ってきたのだ。
――恐ろしくても見なくてはいけない。
そのような複雑な思いでコンソン島を訪ねた。

コンダオ収容所の歴史は、1862年、フランスによるこの島とメコンデルタ南部の占領と同時に始まった。
コンダオ収容所は、大きく4つのブロックからなっている。
そのひとつ、フーハイ収容所に入った。
中庭を囲んで大きな赤い瓦屋根の建物に、5つずつ合計10部屋が並んでいた。
ひと部屋は中学や高校の教室よりかなり大きい。
中央の広い土間の周囲、四方の壁に沿って、奥行き2メートルくらいの床が一段高く巡らされており、裸の囚人たちは、そこに渡された直径7cmほどの太い鉄棒に、足を鎖で繋がれていたそうである。
一方の壁に30人くらい、ひと部屋に120人くらいが収容されていた。
こうした大部屋のほかに、独房もあった。 これらの建物は、囚人たち自身によって建てられた。 所内には、建築材料の石を割る採石場あともあった。
トラの檻は1940年に建てられたそうだ。
トラの檻に足を踏み入れると、初め、そこは、数人ずつ収容する牢屋のように見えた。 しかし、2階に上がると、そこは、全体が大きな工場くらいの大きな建物であることがわかった。
鉄格子がはめられた床下には、ずらりと120の牢屋が並んでおり、上から監視し、拷問する仕掛けになっているのだった。
生石灰を水と混ぜてかけたり、様々な拷問がなされたらしい。
屋外には屋根のない部屋もあった。
ここは、熱帯の激しい熱さやスコールを遮ることができない、拷問をする部屋であった。
1970年、この拷問部屋は国際的な問題になり、調査団が入るためにいったん壊されたが、翌年またアメリカによって建てられたそうであった。
アメリカが建て直したトラの檻は、ひと部屋もずっと小さく、廊下も狭く、ひとつの建物に50ほどの部屋があった。
ここに収容された囚人たちは、いろいろな形で抵抗し、また作業の合間に脱出の計画を実行した。
多くは再び捕まったが、1975年の解放まで生き延びた人もいて、ルーンさんはその一人を知っているとのことであった。
人間のすることとは思えない残虐な行為がなされていたこれらの建物群と収容所跡は、しかし、モモタマナとナンヨウスギが大きな木陰を作る明るい日ざしの中にひっそりと静まっていて、想像していた暗さや恐ろしさの影はなく、ただ不思議な空間を作っていた。 (この項、宮本・記)
【10月15日(月)コンソン島】
島の市場へ行く。魚屋には、まさしく熱帯魚が並んでいる。はさみで上手に裁いている。市場の中ほどに食堂がある。おこわや、芋羊羹のようなものも売っている。奥の八百屋は、蔓を食べるサツマイモの茎や野菜も変わったものがある。主婦には楽しい場所だ。
その後、虎の檻で亡くなられた方たちのお墓に行く。ジャンヌダルクのような女性(ボ・テイ・サウさん)の墓を詣でた。
囚人に作らせた未完成の橋を見学した近くで、ラタンを見た。籐と訳されているので藤蔓を連想していたが、棘だらけの羊歯のお化けのようなものだ。
島の反対側の漁村へ行き、蟹をとる仕掛けを見たり、漁をする大きなざる舟や海蛇をさばいているところを、面白く見学した。女の人たちが円陣を組んでトランプをしたりしている片隅で干し蝦の殻をむいていて、その場で購入する。帰りに海水浴を楽しむ。
【10月16日(火)コンソン島→ホーチミン】
コンソン島よりホーチミン市に戻り、フォーのお店で昼食。蕃レイシ(釈迦頭)が、とても美味しかった。
戦争博物館(戦争証跡博物館)を見学。
夕食はスコールの中、ベトナムのお好み焼き(バイン・セオ)を頂く。
【10月17日(水)ホーチミン】
午前中は美術館を見る。インターナショナル・スクールの子供たちが見学に来ていて、五月蝿いこと。裕福な家庭の一人っ子が多くわがままに育っているらしく、今まで会ってきた子供たちとは、人種が違うような気がする。
フランス映画に出てきそうな昔のエレベーターがあり面白い。ステンドグラスも綺麗だ。窓から見える家々の裏側も面白い。
バイキングの昼食。日本であまり食べられなくなったタニシなどの食材も味わう。
渦巻きの線香で有名な中国のお寺(ティエン・ハウ寺:Chua ThienHau)を見て、ベンタイン市場へ行く。
ホテルに戻り、ドクさんの新居を訪問。
ベトナム最後の夕食を生演奏つきでいただく。待望の"美しき昔"をリクエスト。その後、空港へ向かい、深夜、関空、成田へ出発。
【10月18日(木)ホーチミン→帰国】
早朝、無事関空、成田着。
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