2009年FUJI奨学金授与の旅
2009年10月6日〜10月12日

10月6日(火) ホーチミン
 2009年10月6日、関東組(6名)は成田から、関西組(6 )は関空からホーチミン市、 タンソンニャット空港めざし出発。関東組の到着は予定より30分以上遅れる。これは フィリピン近くに停滞する台風を避けて飛行したことによるそうだが、関空からの飛行は なぜかほぼ予定通りに到着。タンソンニャット空港の荷物受け取り場所で関東組、関西組が 無事合流して市内のホテルに向かう。
 ホテルに着くや否や、女性陣の大部分はアオザイ作りのために生地屋に直行。しかし、 男性陣は各自ホテルの部屋でぐったり。
ドクさん夫妻と の会食
アオザイの採寸が終了後、ドクさん夫妻と会うことになっている市内のレストラン、 Com Nieu Saigonに向かう。
 ドクさん夫妻は先に到着し、私たちを待っていた。ルーンさん夫妻、私たち一行と、 宮本さんの友人の植田さんが、ドクさん夫妻を囲んで談笑。
 一通りの挨拶の後聞いたドクさんの話:
   ・平和村の中にあるツーズー病院(産婦人科のみ)のリハビリ部門で事務職員として 勤務している(障害児たちの世話とコンピューターを扱う仕事)こと
 ・7歳の時にツーズー病院で分離手術を受けたが、兄(ベトさん)は2007年に意識混濁 から復帰しないまま25歳で亡くなったこと
 ・妻が来月末、男女の双子を出産する予定であること など。[旅から帰った半月後、 予定より早く10月25日、無事双子誕生。フ・シ(富士の意で愛称フジ)君とアン・ ダオ(桜の意で愛称ハナ)ちゃんと命名された]



 会食後、日本から持参したおみやげの品と私たち有志から出産のお祝いをドクさん夫妻 に贈り、ドクさん夫妻の健康と安産を祈ってお開きとなった。 
(岩田・記)
10月7日(水) ホーチミン→ベンチェ→カントー
 朝、出発のためにホテルのロビーに降りると、ルーンさんから清水さんを紹介される。 清水さんは日本に帰化された元ベトナムの方で、現在、建築関係の仕事をするために ホーチミンに滞在中とのこと。清水さんを交えて、私たち一同、小型バスでベンチェに向かう。
 最近完成した東西高速という片道2車線の道路を南西にバスは走る。市中の道路に比べて広く、 バイクの数はやや少ないものの、原付バイクと車が入り乱れて、運転はやはり難しそう。 昨年まで、ベンチェの町へ行くにはフェリーを利用しなければならなかったが、橋が完成した のでスムーズにベンチェに到着。
 途中、FUJI教育基金が支援しているベンチェ特別支援学校を訪問。しかし、 「インフルエンザ感染防止のために校内に入らないでほしい」と事前通告を受けていたので、 校内に入らず、そのまま「ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会」事務所を目指す。
「ベンチェ貧困患者 と障害者を支援する会」の事務所訪問
  「ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会」事務所到着。所長のフインさん、副所長 のグーさん、それに特別支援学校元副校長(現在、FUJI教育基金が支援する刺繍クラス世話役) のディエップさんらに出迎えられた。
  フイン所長から、最初に、「特別支援学校の生徒たちの内62人がインフルエンザに罹患し、 みなさんに感染するといけないので、学校訪問を中止していただいた」との説明があった。
 (日本を出発する時には、私たちが校内に入るとインフルエンザを持ち込む危険性がある ためだと思っていたが、そうではなく、私たちがインフルエンザに感染するといけないので 中止となったのだ。)

フイン所長














そのあと、フイン所長およびグー副所長から「ベンチェ貧困患者と障害者を支援する会」の活動 について、おおむね以下のような説明を受ける:
 ・ベンチェ省では、現在も聴覚、視覚、肢体障害などの発生率が日本などに比べて10〜15倍 高い。しかし、この原因が枯れ葉剤であるかどうかの因果関係は明確でない。
 ・「支援する会」はさまざまな職種からなる約800人の会員からなっており、会の活動資金は、 日本人を含めた多くの人々の寄付によっている。
 ・事務局のスタッフはボランティアで、給料を貰っていない。
 ・これまでの5年間に以下のような活動を行った。
  (1)心臓手術330人(主にこども)の援助
  (2)目の手術10000人以上
  (3)身体障害者に車椅子を贈る(約2000台)
  (4)奥地に医者を派遣する(これまで約14万人治療)
  (5)特別支援学校の援助(FUJI教育基金からは刺繍教室)
  (6)心臓病の子供を持つ貧しい家庭に家を提供(これまで250軒)
  (7)経済的に困っている入院患者に食事の提供(1000食/日)。
 ・ベンチェ特別支援学校のような学校はベンチェ省でここ1校のみ。
 ・生徒数は小、中、高あわせて200人で、重度障害者は受け入れていない。
 ・現状では、200名以上の生徒数を受け入れるのは不可能だ。
 ・高校を卒業すると大学や短大に進学する者もいるがまれで、大半の者には職がない。
 ・FUJI教育基金が援助する刺繍教室は、2006年から2009年までスキルのある者を選抜して 21名ほどのクラスで運営している。
 ・これまでの刺繍教室への支出は援助額の約80%で、現在、若干の残金がある。
 ・2009年までに刺繍教室を卒業した9人の内、3人は刺繍で生計を立てることができるよう になったが、残りの者は引き続き学校に残ってスキルを磨いている。

 所長から、刺繍教室を卒業した内の1人は結婚したとの喜ばしい報告があった。今回、 この9人には日本から持ってきた糸切り鋏を贈る。

 「支援する会」の事務所を辞して、昼食会場の水上レストランに向かう。あいにく所長、 副所長ともに都合が悪く、特別支援学校元副校長ディエップさんのみが私たちと昼食を共 にされる。

 その後、私たちはメコンの中洲にある椰子キャンディの工場、果樹園などを見学し、 両岸にニッパヤシが繁茂している水路を小舟で遊覧。ニッパヤシの北限は西表島であるが、 天然記念物となっている西表のニッパヤシに比べて、本場のニッパは背丈が3倍ほどもあり、 さすがに立派だ。
 メコンクルーズが終わり、船着き場に着くと、バイクで先回りしたディエップさんが待って いた。刺繍教室の生徒の作品(刺繍したTシャツやバッグなど)をもってきていて、私たちが 船から降りると、すぐにバザーが開かれる。
 そんなこんなでベンチェの出発が遅れたうえに、カントー市までの道程が結構あったことや 市中に入るにはフェリーを利用しなければならなかったことなどで、長時間のドライブを 耐え忍びながら、やっと最終目的地の忍窮!(ニン・キュー)ホテルに20時頃、到着。
(岩田・記)
10月8日(木) カントー
10月8日は早朝、希望者のみで水上マーケットの見学に向かう。その途中、建設中の 橋が前方に見えてくる。
 「日本の援助によって建設中のあの橋は、2年前、橋梁が崩落し、150名近いベトナムの 建設作業員が死傷した」とガイドのトンさんの説明。

日本の援助で建設中のカントー橋








杜撰なODA事業を浮き彫りにする悲惨な事故だが、なぜか日本では 大きく報道されることがなかった。その一方、大手ゼネコンなどが絡んだ胡散臭い数々の 因子が招いた事故であると、いろいろ取りざたされている橋でもある。まさか、このような 大事故を起こした橋を今回の旅で間近に見ようとは、日本を発つ前に予想もしなかった。 なお、このカントー橋(約2700m)は来年には完成するとのことである。
カントー大学で の奨学金授与式
カントー大学での授与式は、農学部事務局長チュンさんの式辞から始まった:

↑式辞を述べるチュンさん ↑奨学生代表クエンさん

「奨学金を渡すために遠い所から来て下さり、みなさまと奨学生たちがこうして直接交流できる ことは他に代えることのできない大きな励みとなる。奨学金の額の多少に関わらずこのような 交流をこれからも継続願いたい」といった趣旨の話しがあった。

 次いで、FUJI教育基金側から宮本さんの挨拶、カントー大学の関係教官7名の紹介、私たちの 紹介と順に式が進む(この式に列席されたカントー大学の教官は、日本での留学経験を持つ方 ばかりだ)。
 そして、今回、奨学金を授与される5名(男性3名、女性2名)が紹介され、奨学生代表の クエンさんがお礼の挨拶を行った。
 5名の奨学生の選考に携わった教官スアン・トゥさんからは、どのような基準で選考したかの 説明があった:  「親がなく、お金に困っている人を優先したが、それだけの理由では駄目で、 成績が優秀な人を選んだ」とのことであった。

カントー大学の5名の奨学生













最後に、FUJI教育基金を代表して宮本さんが農学部の教室にMERK INDEXを寄贈。
 式の後、農学部の研究棟の一部を見学。日本の生物系のどこかの研究棟のように廊下に器具が はみ出したりせず、研究室が非常に整然としている。開いていたドアから研究室内を見ると 1機200万円はするような最新式の遠心分離器が数台設置されていた。
 そのあと、カントー大学の学生食堂で奨学生を囲んでの昼食会となった。食事の終わりごろに 鍋が出たが、これを使って中塚さんが関西風のおじやを作り奨学生に振舞ったところ大好評で あった。 
(岩田・記)
アンザン大学での 奨学金授与式
授与式はルク副学長の挨拶から始まる。インフルエンザの影響で学内を消毒している最中 に訪問したので、猛烈な噴霧器のエンジン音と消毒液の臭いの中で式が進行する。アンザン大学 での奨学金授与は今回4回目、授与するのは農学部の学生20名である。
 私たちは交互に奨学生(男性16名、女性4名)に奨学金を授与する。そして、返礼として アンザン大学の標章の入ったピンバッジを奨学生たちから胸に付けてもらう。

アンザン大学の奨学生













奨学金の授与が終わったあと、奨学生を代表して、ゴク・ユンさんがお礼の挨拶を述べる。

奨学生代表ゴク・ユンさん













彼女の話は長く複雑で、日本語に訳すと時間が相当かかりそうなので、ルク副学長が手短にと 促した。そのために中間をとばして挨拶は終わった。
そのあと、彼女を代表に選んだ教官の1人から、「彼女から、父親が勤め先をリストラされ、 それによって生じた家庭の窮状を綴った手紙を受け取り、その内容に感動したので、奨学生代表 に選んだ。そして、手紙の内容を挨拶の中で話すよう彼女に勧めた」 との説明があった。
「今回は残念ながら、時間が押しているので手紙の全容を紹介できないが、後日、日本語に 翻訳し、何らかの方法で皆さんに知らせる」 ことで一同、納得。  最後に、アンザン大学 からお礼として、アンザン大学の標章入りの盾と花束がFUJI教育基金に贈呈される。

副学長から盾と花束が授与される













夕食はロンスエンのレストランで、ネップ・モイで乾杯しながら、奨学生たちと楽しく交流。 奨学生たちは私たち高齢者に対して非常に礼儀正しく振る舞い、日本の若者に彼らの爪の垢 を煎じて飲ませたいとの思いを強くいだいた。
会も終わりに近づき、一同のアルコール度も上がった頃、奨学生の1人が地元の民謡を歌って くれた。その返礼に私たちは“北国の春”を歌おうと、立ち上がったのは良いが、それぞれが 歌詞をうろ覚えで、断水後に蛇口をひねったような歌となる。
すると、奨学生のみんなが立ち上がり、一斉に威勢よく歌い出す。歌詞の詳細は不明だが、 どうやらホーチミンを賛美する歌らしい。まるで母校の応援歌を歌う団員のような彼らの歌声に、 ただ脱帽!
私たちが訪れた時、ロンスエンに長期滞在する日本人は2人だけとのことだが、どのような伝手 をたどってか、その2人とも今宵の交流パーティに出席された。1人はJICA(青年海外協力隊) から妊婦の栄養指導のために派遣された遠藤さん、もう1人はコシヒカリの栽培を指導されて いる江森さんである。江森さんはベトナムから日本に帰化された方なので、ロンスエンに 長期滞在する元々の日本人は遠藤さん1人であるらしい。彼女はベトナムに滞在してまだ 3ヶ月なのにベトナム語で奨学生たちと楽しく会話している。
(岩田・記)
10月9日(金) ロンスエン→チャウドック
10月9日、ベトナム・アンザン省の省都ロンスエンから、カンボジアとの国境の街 チャウドックに向かう。バスの車窓から見る風景は一面の水である。稲作文化を共有する からだろうか、この風景は不思議と違和感がない。ちょうど代掻きが終わるころ、パッと 一斉に広がる日本の水田を眺めているようで、どこか郷愁さえ感じる。

ビンミー幼稚園、ビンチャウ幼稚園、ビンチャウ中学校訪問
 チャウドック近郊で、FUJI教育基金会員が援助した幼稚園2園と中学校1校に立ち寄る。
 ビンミー幼稚園  最初に訪れたビンミー幼稚園では、園児たちが教室でワイワイとにぎやか。日本から持ってきた牛乳パックで作った“ドラえもん”や“ピカチュウ”をわたすと、園児たちは大喜び。このおもちゃは、口をパクパクさせることができる。

ビンミー幼稚園で “ごっこ”遊びでもするのかと想像していたところ、これを手 に持つや否や、男の子も女の子も一斉に、お互いに噛み合いを始めた。その騒がしいこと。 この反応は日本の子どもとまったく同じ。










ビンチャウ幼稚園  
もう1つのビンチャウ幼稚園は、残念ながら午前の部が 終わった直後に訪問したので、園児は不在であったが、7人の先生方が私たちを待っていて くれた。この幼稚園が建築された当初は、砂漠のような殺風景な所にぽつんと建っていたそう だが、現在は園長さんたちの努力で前庭一面に赤いマツバボタンが咲き、幼稚園にふさわしい かわいい園となっている。

ビンチャウ中学校  
この中学校は高床式の校舎である。以前、増水期には校庭が 水没して、登下校時に親が生徒たちを船で送迎したそうであるが、堤防がかさ上げされてから は、水没することはまれだとのこと。しかし、私たちが訪問したとき、中学校のすぐ近くを 流れる川は堤防から50cmほどの下を流れ、その水位は校庭より2mほども高かった。

ビンチャウ中学校












 ベトナムでは幼稚園を含めてほぼすべて2部制だそうだが、この中学校も2部制で生徒数は340名、教員数は35名とのこと。私たちが訪問した時には教室でピタゴラスの定理の授業中であった。
(岩田・記)
ツ・コア・ギヤ高校、ボー・ティ・サウ高校、グエン・デイン・チュー中学校奨学生への奨学金授与
午後4時、ツ・コア・ギア高校で私たちは、廊下に並ぶ真っ白なアオザイ(制服)の女子高生たちに出迎えられる。

制服の女子高生による出迎え














大きな教室には「歓迎!」「FUJI教育基金2009-2010年度奨学金授与式」と書かれ、すでに3校の 奨学生(ツ・コア・ギア高校20名、ボー・ティ・サウ高校20名、グエン・デイン・チュー中学校 40名)が勢ぞろいして待っていた。
最初に FUJI教育基金の協力者・世話役フーンさんが挨拶され、続いてツ・コア・ギア高校代表 キエットさんが、 「子どもは国の将来を担う重要な力だが、すべての子どもはいろいろな困難を抱えている。 こうして遠く日本から来られ、援助して下さることはそれを乗り越える大きな力と励みと なっている。 FUJI教育基金の奨学金は1996年から受けている。 最初の奨学生はもう社会に出て働いて いるが、皆さんの気持に答えるようがんばっている」と挨拶された。
また、ボー・ティ・サウ高校のホア副校長も、  「毎年入学して来る1,200-1,300人の生徒 の15%は、親がなかったり、孤児であったりして勉学が困難である。 育英会も奨学金を出しているが、FUJI教育基金の奨学金は成績が優秀でないと受けられないので、とても励ましになる。 これは大変ありがたいことで、これからも続けてほしい」 と述べられた。
つづいて、壇上に上がった生徒たちに交代で1人ずつ奨学金を渡して握手し、 記念撮影をした後、ノートと筆記具を贈る。

奨学生(中学生)














奨学生(高校生)













 これに対し、奨学生を代表してボー・ティ・サウ高校2年生トウアンさんから、  「奨学金をいただき、とても感動している。 チャウドックは、最近の調査によると300 年前からの歴史を持つ町で、最近は年間100万人の観光客を迎えている。 ふるさとに誇りと責任を持ち、もっと発展させるよう頑張りたい。
この奨学金は幸せいっぱいの中でいただく。あらためて厚くお礼を申し上げる」 との立派なお礼の言葉があった。
 その後、 「FUJI教育基金とはどういう会か」 「日本の高校生はどんな生活をしているか」 「どうしてチャウドックを選んだのか」 などなど生徒たちからのさまざまな質問に対して、 私たちは交代で答える。
 最後にFUJI教育基金(宮本)から、 「ここに遠くても来たのは、皆さんに会いたい、 皆さんの元気な顔が見たいと思ったから。また、チャウドックはルーンさんの故郷であり、 信頼できる人たちが、私達の奨学金を有効に使って下さるから」 と挨拶して締めくくった。
(宮本・記)
10月10日(土)チャウドック:高校生たちとの交流
朝、ツ・コア・ギヤ高校とボー・テイ・サウ高校の奨学生(各8名)およびそれぞれの高校 の先生たちとホテル前で合流し、2台の車に乗って、まずチャウドクの市場の見学。
そのあと、サム山とバー・チュアスー廟の観光に向かう。車中では、日本から作って 持ってきたサイコロキュービックなどで交流。

サイコロキュービックで交流















  サム山の頂上では、功徳を積むために売られているツバメを買って、奨学生と共に祈り を込めて空に放す。ツバメは手のひらにほのかな温かみを残しながら、瞬く間に視界から 消えて行く。ツバメが飛び去った向こうには、空とも水とも区別がつかない茫漠たる氾濫原 が広がる。

高校生たちとサム山で













 観光後、奨学生たちと昼食会。やはり、みんな礼儀正しい。ほぼ、食事がほぼ終了するころ、高校生たちに「何か歌を」と所望すると、一斉にベトナムの歌を歌い出した。歌詞の内容は分からないが、みんな大きな声で歌っているところをみると、ポピュラーな歌らしい。その返礼として私たちが何を歌うべきか思案していると、向野さんがタイムリーに“今日の日はさよなら”を歌い出したので、みんなそれにつられて歌い、一同、拍手の中、交流昼食会はお開きとなった。
(岩田・記)
10月11日(日)カンゾー
奨学金授与の行事がすべて終わり、私たちはベトナム戦争の激戦地の一つ、カンゾーに向かう。カンゾーへの道はすごい悪路で、私たちは何度も左右に振られ、飛び上がった。
 ベンチェの「支援する会」の訪問などで、枯れ葉剤が人体に深刻な影響をもたらすことについては理解できたつもりだが、枯れ葉剤が自然にどのような影響を与えたか、車窓から見る風景だけではよく分からなかった。?  しかし、カンゾーに着いて、繁殖旺盛なマングローブ林がすべて大人の腕ほどの若い木々のみからなっているのを見て、やっと枯れ葉剤がこの一帯の自然を破壊しつくしたのだ、ということが実感できた。
 また、このあたりは現在の地球上で最大の爬虫類、イリエワニ(400-1,500kg)の生息地で、ベトナム戦争当時、この付近でゲリラ戦を展開していた解放戦線部隊の総兵員数の実に3分の1相当する850名もの兵士が、任務遂行中にこのワニに襲われ命を失った。このため、カンゾーの森林公園内に建てられている戦没者を追悼するモニュメントの裏側にはワニが彫られている。
 このような悲惨な死をもたらしたイリエワニも、枯れ葉剤の影響で、現在は絶滅の危機に瀕しているとのことである。この話をしてくれたガイドのハ・トンさんが、いつもは陽気で、私たちを笑わせてばかりいるのに、このときは真顔で、   「植物はなんとか回復するが、動物は回復しない」 と言った言葉が重い。
(岩田・記)
【10月12日(月)ホーチミン→帰国】
ホーチミン市師範大学訪問
 平田、宮本、松永、そしてFUJI教育基金代表・ルーンの4人がホーチミン市師範大学日本語科の授業を見学に行きました。
 日本語科は開設されて2年目、2年生までしかいません。50人ぐらいの学生たちです。
 はじめに、私たちから1人ずつ自己紹介しました。「日本語で大丈夫」とのことで、日本語でゆっくり話しました。
 お邪魔したときは文法の授業中、「敬語の使い方」についてを勉強中でした。ベトナム人の女性の先生は、訛りのない綺麗で見事な日本語で、「日本語の難しい点は、敬語」とおっしゃり、学生たちが私たちに質問することになりました。
――“お寺” と“神社”ですが、“お寺”には “お”がついているのに、“神社”には、なぜ“お”がつかないのですか?
 この質問には、平田、宮本、松永が答えたのですが、学生は、納得しなかった様子でした(“神社”については古くから使われている“社(やしろ)”という言葉があり、これは寺と同じく“お社”という、神社は漢字から来た言葉なので“お”はつけない、などと説明したのですが、難しくなってしまってダメでした)。  私たちも何気なく、ふだん“お寺”“神社”と口にしていますが、質問されるまで、どうしてなのか考えたこともなく、改めて考えさせられました。レベルが高い!?   つぎの質問は、? ――“料理を作る”“モノを造る”とつかいわけていますが、どうして“子供をつくる”と言うのですか??  宮本、松永が答えたのですが、やっぱり納得してない様子(まずはじめに、「子供は授かるもので、作るのではない」からスタートしたのがいけなかった。でも、「作る」と言うわね――実際、ゆうべの少子化問題についてのテレビ番組では、ばっちり「子供を作ってもらうには」とやっていました)。  このやりとりを見ていた代表のルーンが、ベトナム語で漢字の覚え方をホワイトボードに書き、さすが苦労して日本語を習得したベトナム人だけのことはあって、学生の心をワシ掴み、拍手喝さいでした。



ちなみに学生が知っていた日本の地名は、東京、渋谷、京都でした。 冷や汗をかきながら、あっという間に2時間が過ぎ、師範大学の先生・学生に感謝し、 記念写真を撮ってお別れしました。(ベトナム語にも漢語がありますね、DAI HOCとか) 
(松永・記)
旅も終わり
10月12日、旅の最終日。平田、宮本、松永、ルーンさんたち4人はホーチミン市師範 大学日本語学科を訪問、残りの者はベトナム戦争の激戦地、クチの観光に向かう。

サイゴン河の夜景午後には全員が落ち合い土産物などの買い物をした後、ホテル をチェックアウト。ホーチミン市の中でも最も伝統あるマジェスティックホテルで夕食。 夕食後、ホテル屋上にある“M バー”でサイゴン河の夜景を見ながら各自思いを巡らす。
(岩田・記)
大石さんから、チャウドックの元奨学生の消息
元奨学生たちが、高校や大学を卒業したあと、どんなことをしているか教えてもらうと うれしいものです。そんな1人の消息を、FUJI教育基金顧問の大石芳野さんが伝えてください ました。
 大石さんは、2010年1月ホーチミン市に行ったとき、FUJI奨学基金でチャウドックの 高校を卒業したハーさんに会われたそうです。
 ハーさんは、ホーチミン市師範大学の日本語学科2年生。2009年の奨学金授与の旅の最終日、 FUJI教育基金の会員がホーチミン市師範大学を訪問しましたが、そのときもハーさんは いました。

前列右から3人目がハーさん以下、大石さんからの レポートです: ***************************











  ハーさんは、とても頭の良い女性でがんばりやで、感心しました。   そして若い娘さんらしく、とてもお洒落です。お洒落が上手で、これも感心しました。

お洒落が上手なハーさん
















 彼女は、「FUJI奨学金のお蔭で今の私があります……」と、とても感謝の気持ちを持っているように思いました。
 彼女は高校を卒業して働いたあと、師範大学に入学したので、周囲の学生より年齢は高いわけですが、そうしたことはほとんど気にしていないように感じました。
 漢字も得意です。試験ではひらがなの質問文なので、むしろ彼女にとっては分かりにくかったりするそうです。わたしが漢字を交えながら簡単な文章を書くと、「ああ、そうですか……」などと理解できるほど、漢字が得意なようです。
 わたしが普通に話していてもついてこられますが、むろん、まだ2年生ですから、まだまだのこともあります。けれど急速に上達していくことでしょう。
 ハーさんの日本語との出会いは、ルーンさんから日本語ヴェトナム語の一冊の本を貰ったことで興味を持ったことがきっかけだったそうです。
 卒業したら、日本語の教員になりたいそうです。「今の先生がとても素敵なので」と言っていました。  わたしが彼女に初めて会ったのは、彼女が高校生のときです。基金の援助を受けていた学生たちと面会したときの一人です。彼女ともう一人の仲良しと一緒に3人で写真を撮りました。わたしも二人のことをよく覚えています。
 今回、初めて会うときに(再会ですが)、彼女はそのときの写真を持ってきました。
 もう一人の仲良しは結婚して保育園の先生になっているということでしたが、実は、高校生のとき彼女は将来は女優になりたいと言っていたのを記憶しています。
 印象に残った二人でした。 彼女から、FUJI教育基金のみなさんに「よろしく」とのことでした。